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中村 勇吾 インタビュー

中村 勇吾

2008年

Flashを用いたインタラクティブ・インターフェースを確立した、日本を代表するウェブデザイナー・中村勇吾氏。『カムカムタイム』『NEC ecotonoha [エコトノハ]』『UNIQLO USA』など、彼が生みだした独創的なウェブサイトは世界中から高い評価を受けている。いまなお斬新なアイデアで世を驚かせつづける中村氏に、ウェブデザイナーになった経緯から、アイデアを形にする方法まで、じっくりと話をうかがった。

“マイコン”に親しんだ子ども時代

まずは、中村さんがウェブデザイナーを志すまでのお話をうかがいたいと思います。どんな子ども時代を過ごしましたか?

すごく現実的で、あまり夢のない子どもでしたね(笑)。小学校の文集などには、“社長になりたい”という、漠然としたかわいげのない夢を書いていたと思います。理科が好きで、絵は苦手。それはいまでも変わりませんね。ラフスケッチをして、スタッフに“こんな感じで”という風に見せても、全然伝わらない(笑)。つまり、僕は絵が描けない人なりにデザインをしているんですよ。

それは意外ですね。ところで、中村さんは東京大学工学部に進学されていますが、学生のころは勉強づけの日々だったのでしょうか?

実は数学や物理は、理系のわりにはできない方で、得意なのは国語や英語でした。小学校時代に“マイコン”とよばれるコンピュータが出はじめていて、それ欲しさに勉強に励んだり(笑)。ご褒美をもらいたいから勉強をがんばる、というような子どもでしたね。やっと手に入れたコンピュータでプログラミングをしましたが、いまのようにゼロからつくるものではなく、はじめは雑誌の後ろのほうに何十ページも載っているコードを写すだけ。きちんと写したつもりでも、最後にエンターボタンをポーンと押すと、全然動かない(笑)。どうしてもエラーが出てしまって、10〜20行のプログラムしかつくれませんでしたね。

本格的なプログラムがかけるようになったのは、大学に入ってからかな。専門の授業を受けて、簡単な四角形を書いたりするようになって。いわゆる「タートルグラフィックス」というもので、“ちょっと進んで右に曲がって”という簡単な手続きを積みかさねて、図形をつくっていくんです。それがおもしろくて、プログラミングの授業は欠かさず出席していました。 大学一年生のとき、ちょうど第一次Macブームがあって、江並直美さんの『デジタローグ』レーベルをはじめとするCD-ROMが流行しました。同時に、『ポップ・アップ・コンピューター』を発売した松本弦人さんが話題になりはじめて、ソフトメーカーではなく、一個人の名前が出てくるのはおもしろいな、と思っていましたね。

デザイナーになろうと思ったのは、そのころでしょうか?

その頃はまったく考えていなかったのですが、22、3歳のころに、ジョン前田さんの『リアクティブ・グラフィックス』に出合いました。こちらもデジタローグでつくられているのですが、シンプルながらすごいアイデアから生まれていて、これはおもしろいと。そこではじめて、自分もコンピュータの上でのデザインをやってみようと思ったんです。

大学院修了後は、橋梁関係の設計事務所に就職されましたね。

建築の世界は歴史が古いので、かなり仕事が細分化されているのですが、橋梁や土木の世界はまだデザインの歴史が浅くて、エンジニアリングとデザインがきっちりと分かれていなかった。やりたい人は分け隔てなく仕事がやれる時代だったので、そこに惹かれたんです。入社後にはじめて担当したのは、「第二東名高速道路」のデザインでした。橋梁は、計画から完成までとても長い年月のかかる仕事なので、その会社にいた期間に完成を見た仕事はひとつもありませんでしたけど。

趣味でやっていたサイトが大評判に

丸4年間勤めた設計事務所を退社されて、いよいよウェブデザイナーとして活躍されるようになりますが、プロとして仕事をはじめたきっかけは?

趣味でつくっていたウェブサイトが世の中に評価されて、これは仕事になるのではと思ったからですね。 自分でつくったコンテンツを載せた個人サイトを大学院時代にやっていたんですが、就職して一時はやめていたんです。でも、仕事で忙しくて仕方ないときにふいに再開したくなって。“試験勉強前の大掃除”みたいな、ちょっとした現実逃避でしょうか(笑)。はじめは息抜きのつもりでしたが、結局はそれにどんどんのめり込んでいきました。プログラミングはやりながら覚えていったので、当時はヘルプファイルが友達でしたね(笑)。

Flashは独学で覚えていったんですね。

実は当時は、いわゆる「Java」や「Director」のような、インタラクティブなプログラミングがしたかったんですが、ソフトの値段が非常に高くて。そこで、マクロメディアが1ヵ月のトライアル版を配布していた、「Flash」でどうにかしようと思ったんです。当時はまだアニメーションツールに毛が生えたようなものだったんですが、それを強引に、プログラミングツール的に使うという感じ。言うなれば、「Excel」でインベーダーゲームを制作するようなものですね。そうした僕の試みに対して、世界中の人から“おもしろい”“新しい”という評価をもらって、この分野でやっていけるのでは、と思ったんです。

2000年から、ウェブデザイン界の巨匠・福井信蔵さんが設立した「ビジネス・アーキテクツ」に入社されました。当時はITバブルの最盛期でしたね。

それまでは細々とやっていたウェブ関連企業の需要が一気に高まり、日本でもコンサルティングからデザインまでを一挙に請け負う、理想を掲げた会社が評価されはじめていたころです。当時の僕はその意義をあまりわかっていなくて、信蔵さんに誘われたときは、単純に“なんだかおもしろそうな人たちがいるぞ”という感覚でした。なので、最初は趣味としてつくってきたものを、ビジネスで展開するという感覚の切りかえができていなかったんです。信蔵さんという、グラフィックやエディトリアルデザインの本当のプロの仕事を隣で見ることで、どんどんと自分の意識も変化していきました。あの経験がなければ、プロのデザインに求められる基本的なクオリティ感や精度感はわからないままだったと思いますね。

その当時はどんな案件を手がけたのですか?

大きなクライアントの仕事が多かったですね。僕が手がけたのは、NTTデータ、パナソニック、ソニーなど、大企業のホームページをゼロからつくり直す案件が中心でした。頼まれてもいないのに凝ったデザインにしたりして、逆に「使いづらい」と言われてつくり直したことも(笑)。メニューやインターフェースを実験的なものにすると、それだけで新しくみえて、喜んでもらえる時代でもあったんです。もちろん、当時は本気でやっていましたが。

2002年には、ブロードバンド専用コンテンツ『カムカムタイム』で、第6回文化庁メディア芸術祭のデジタルアート「インタラクティブ」部門の優秀賞を受賞されました。

© 2002 SONY CORPORATION

はじめてきちんと自分で考えて、満足いく形に仕あがった仕事ですね。自分では、“どう考えても金賞だろう”と思ったくらい自信がありました(笑)。当時のウェブとしては、地味に難しいことをしているんですよ。いまでは動画のアップロードが当たり前になっていますが、当時はそれをきちんと処理するシステムがなかったので、ゼロからシステムを構築して。もとからある手段だけではなく、技術的なハードルを乗り越えてつくったのもはじめてだったので、とても印象に残っているサイトです。

おもしろくなりそうな仕事がしたかった

2004年にデザインスタジオ「tha」を設立されましたが、独立に際して考えたことは?

「ビジネス・アーキテクツ」での4年間で、少なくともこの業界ではそこそこは仕事ができる方になっていたので、仕事の量が増えすぎたんです。そこで、仕事量を自分でコントロールして、ひとつひとつに時間をかけたいな、と思って。言いかたは悪いかもしれませんが、おもしろくなりそうな仕事を自分で選びたいと考えて、独立を決めました。

「ビジネス・アーキテクツ」を辞められた直後の2003年、中村さんが手がけた『NEC ecotonoha [エコトノハ]』というサイトが大きな話題となりましたね。

© NEC CORPORATION

これはとても興味深い仕事でしたね。偶然にも、会社を辞めた一週間後くらいに、突然NECメディアプロダクツの担当者からメールをいただいてスタートしたプロジェクトです。
NECの環境へのとり組みをアピールするサイトをつくりたい、というのがクライアントの要望だったんですが、すでに当時、クリック募金のシステムはできていて、NPOなどが企業をまとめていました。そこで同じことをするのはおもしろくないので、クリックしたらアニメーションが流れるようなものにしたい、という話だったんです。それだけのサイトだったら3日でできるですが、もっとおもしろいものにしたかった。会社を辞めたばかりで時間もあったので、はじめの打ち合わせの段階には「閲覧者のクリックで木が成長していく」というアニメーションのデモを持っていったんです。そして制作の過程で「文字を入れられるようにしたら、よりバリエーションが出るのではないか」と考えて、要素を足していきました。

クライアントのオーダーを100%実現する、という仕事のやり方もあると思うのですが、中村さんの場合は、クライアントとのやりとりのなかで、オーダー以上のご自身のアイデアを実現していくんですね。

そうですね。僕はオーダーというよりは、“お題”として捉えています。それをきっかけに考えて、最終的に提案したものが、当初の企画意図を内包していればいいじゃないかと。理詰めでいくよりは、いちど話を聞いたら、打ち合わせのときにデモまでつくっていって、「こんなん出ましたけど」というほうが多いですね。“もの見せ勝負”というか。
もちろん、「おもしろい話をどうも。それで本企画についてなんですが…」というふうに、提案したものが空振りすることもあるんですが(笑)、考えたネタはそこでボツになってもどこか別のところで使えるので、とくに落ちこむことはありません。ボツになるほど、引き出しが増えていくということですから。

クライアント仕事とご自身のクリエイティブな活動の割合が、一年を通じて半々だという話も聞きましたが。

それは大げさです(笑)。実は僕をとりあげてくれたTV番組でそういった話題がでたあと、「いまは営業期間じゃないかも」と勝手に遠慮されて、仕事の連絡がこなかったりしてちょっと困っているんですよ。 ただ、うちの会社は8月末決算なので、9月頭から3月末までの上半期は、クライアント仕事をかなりがんばります。逆に4月からの下半期は、仕事に直結しない開発や創作にも力を入れていくんです。もちろん、その間クライアント仕事も行ないますよ。ただ、ある程度メリハリをつけて、種をまいていかないと、どんどん消耗戦になってしまいますからね。

本当ならば、仕事のなかで自然と種まきができるのが理想なのですが、仕事でやりきれなかったことや、思いついたアイデアが残ったときに、忘れてしまうんじゃないかという不安もあって。頭のなかには常にモヤモヤしたアイデアがあるのですが、形にしてみないとおもしろいかどうかはわからない。それをチェックしていかないと、前に進まないんです。目先の仕事ばかりやっていると、気がついたら3、4年前のアイデアを、いまになって確認する、という状況になってしまったりしますから。だから、仕事以外でもアイデアをどんどん形にして、表に出していかないと気持ちが落ちつかないんですよ。

クリエイティブを、ビジネスとして成立させる

現在の中村さんにとって、クリエイティビティを刺激するものとは?

世界中に僕と同じような興味を持っている人がいて、その人たちがやっている仕事はかなり参照していますね。インタラクティブデザインのメジャーなトピックについて、自分ひとりだけではなく、興味集団全体で考えているという一体感もあります。そんななかで“いま、こういうものが流行ではあるけど、自分がやる必要はない”と、消去法で考える場合も多いです。
また、クライアントの考え方に刺激を受けることも多々あります。それぞれ違うビジネスをしていて、それぞれの考え方がある。それが、発想のきっかけになることもあって。

たとえば、デザイン、操作性ともに画期的なサイトとして話題になった『UNIQLO USA』の仕事はどうでしたか?

ユニクロは通常のファッションブランドと違って、生産から販売まですべてを手がけています。そういうシステマチックな部分が、すごくおもしろい。同社で社長を務める柳井正さんの言葉に、「服は服装の部品である」というものがありますが、ユニクロは美意識のある合理性を持って服の小売を展開している。ファッションブランドとは違う概念でサイトをつくる、というのが僕にとっておもしろかったですね。
また、ウェブサイトは、“操作をしたらなにかが返ってくる”という、インプットとアウトプットの関係があるメディアなので、そうした体験のなかでメッセージを伝えることを意識しました。広告効果に深く関わることかはわかりませんが、僕自身そういうものが好きなんですよ(笑)。この感覚は、昔から変わりませんね。

“消去法で考える”というお話もありましたが、ご自身の仕事を振り返って、何が“他にはなかった”ものだと思いますか?

作家的内部空間やアカデミックな世界に閉じこもらないで、つねに社会的、経済的なリアリティと折りあいをつけながらアウトプットしつづけてきた、ということでしょうか。これが唯一胸を張って言えることですかね(笑)。根気よく創造性、新規性に挑戦しつつも、なおかつクライアントのビジネスとしてちゃんと成立させ、僕らもそれでちゃんとごはんを食べていく、ということ。このバランスの追求は独立を決めたときから、常に考えてきたことです。

最近ではテレビCMも手がけられましたが、映像系の仕事にも進出するつもりはありますか?

機会があったらやりたいとは思いますが、本業にはならないですね。たまたまやらせていただいて、非常におもしろかったんですけど、映像ができる人はたくさんいますから。いままでやってきたことが好きだし、まだ形になっていないアイデアもたくさんあるので、いままでどおりウェブデザインが本業であることには変わりないと思います。

さて、8月には「NOW UPDATING… THA/中村勇吾のインタラクティブデザイン」として、銀座・グラフィック・ギャラリーと大阪・dddギャラリーで同時に企画展を開催されました。ウェブ制作をしている会社の個展というのはとても珍しいと思いますが、きっかけは?

ギャラリーの方からオファーをいただいたんです。商業グラフィックデザイン以外のジャンルから、似た匂いのする人を呼んでみようということで、僕らに声がかかったんですね。もともと、“ギャラリー”という「ここにおもしろいものを展示していますよ、みなさん集まってください〜」という空間が苦手で(笑)、ずいぶん悩んだんですけど、こういったギャラリーでウェブのデザインがとりあげられるのは前例のないことですし、おもしろい企画なのでやらせていただくことになりました。僕はデザイナーなので、手がけたものは、自分の“作品”ではなくて“仕事”という捉えかたをしているので、お客さんの顔を見るのはやっぱり気恥ずかしかったですね(笑)。
自分のホームページも「表現ではなく、表現手法のスタディです」というエンジニア的意識でつくっているので。僕の手がけた仕事については、「中村はこういうものをおもしろいと思っているんだ」というよりは、「たまたまできたもの」という感覚で見てほしいですね。それは、クライアント仕事だからというわけではなくて、客観的にどう見えるかを考え抜いて、それでもどうしても出てしまう“自分らしさ”が、個性だと思うんですよね。積極的に“個性を出そう”というのは苦手で、逆に“ノーモア自意識!”というのをテーマにしています(笑)。

最後に、クリエイターを目指している人たちにメッセージをお願いします。

リアルな話をすると、学生時代からデザイナー志望だった人が、社会にでたはいいけど思いどおりにいかずに悶々としている姿を見ることがとても多いんです。「デザインは才能やセンスではない」とはよく言われますが、いろんな人を見るにつけ「やっぱ才能だよな〜」と思ってしまうことも否めません。
たとえ学生時代はデザイナーになるための勉強をしていても、それがダメだったら、そこから商社や銀行、市役所に就職してみたり、あるいは自分で事業をはじめてみたり、という方向もあるぞ、と言いたいですね。別の分野で勉強していたことが、その後に力になることも多いんです。「これしか成功じゃない」と決めつけて、可能性を狭めてしまわないでほしいですね。

取材・文:神谷弘一(blueprint)
写真:田附愛美

プロフィール

中村 勇吾

NAKAMURA Yugo

日本

インターフェースデザイナー/プログラマー。1970年奈良県生まれ。1998年よりインタラクティブデザインの世界に。2004年に tha ltd. を設立。以後、数多くのウェブサイトや映像のアートディレクション、デザイン、プログラミングの分野で横断/縦断的に活動を続けている。

( 2008 )