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目に見えるものと、そこに何を見ているかは異なる

クワクボ リョウタ

2011年

電子回路を用いたユーモラスなガジェット系作品の数々。あるいは鉄道模型を使って幻想的な影の風景を紡ぎ出すインスタレーション。クワクボリョウタさんの作品は、テクノロジーへの深い洞察力に基づきながらも、常に実世界での身体的な体験と結び付けられているようです。先輩である明和電機との共作に始まり、「作品への問いかけを生み出せるサイクル」を探る道のりや、平成22年度(第14回)文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞の『10番目の感傷(点・線・面)』誕生の経緯を伺いました。

『ビットマン』の誕生までと、明和電機から学んだこと

クワクボさんの作品には、少年時代の機械工作が進化したような世界観を感じます。実際にそういう思い出はあるのでしょうか?

小学生のころ、クラブ活動的な工作はやっていました。みんな説明書付きの工作キットをつくっていましたが、僕はエンジニアをしている父親にキットを買うのを禁じられて(苦笑)。それで、モーターを自作してみることにしました。本を見ながら、空き缶を切ってコイルを巻いて、「鉄を焼きなます」と書いてあるので、よくわからず焚火に鉄板を突っ込んだり・・・・・・。結局、出来上がったモーターはカクッと45度くらいしか回りませんでしたが、それが電気を使った工作の原体験だと思います。他にも、部品を集めてラジオを組み立てたこともありました。これはちゃんと動いて、いまでも取ってあります。

以降もずっと、そうした世界に浸りながら成長を?

いえ。いわゆるマイコンショップに通って遊んだりもしましたが、そのうち音楽、特に洋楽が好きになり、サブカルチャーの方面に惹かれていきました。進学した筑波大学でも最初のころはコンピュータにもあまりさわらず過ごしていたんです。

しかし、そこで明和電機さんとの出会いがあるのですよね。

入学時に、明和電機になる前の土佐信道さんが同じ専攻(総合造形コース)の4年生でした。それで制作を手伝い始めたのがきっかけです。当時から彼らは、常に何かの機能を持たせた作品づくりをしていました。ふつうアートは機能を持たず、イメージや記号を扱うことが多いですよね。その点では異色で、かといってデザイン製品でもない。僕はそこに強く影響を受けました。同時に、音楽や絵も手がけ、自ら演出したパフォーマンスもする土佐さんの多才さを前に、自分の活動はまた別の形になるだろうなと考えていました。

左:『ビットマン』(1998)右:『ビットマン』(2001)
左:『ビットマン』(1998)©1998 Maywa Denki, Ryota Kuwakubo
右:『ビットマン』(2001) ©2001 Yoshimoto Co.,Ltd. / Maywa Denki / Ryota Kuwakubo

クワクボさんが注目を集めたのは、その明和電機との連名で発表、商品化もされた『ビットマン』(98)ですね。

当時はプログラマーの仕事をしつつ、電子回路も少しいじれるようになった時期でした。そこで小さな電光掲示板をつくってみたところ、土佐さんが「これで新しく“電子部門”をやれるかもね」と言ってくれて。そこから発展したもので、作家としての自分を確立する第一歩になった作品です。

電光掲示板に好きなメッセージを表示できるなど、やはり機能を持つ作品ですね。クワクボさんにとってそのことはどんな意義があったのでしょう?

いわゆる「解釈するための作品」は、正解があるならば——例えば評論家の意見など——それを知らなければいけない気持ちになるだろうし、知ったと思った瞬間に自分への問いかけをやめてしまう気がしました。そうではなく、常に作品への問いかけを生み出せるサイクルはないだろうか? そう考えたとき、身体的に関われて「取っ付きやすさ」もある何らかの機能を備えることは突破口になるのではないか。そんな風にとらえていました。

特定の解釈に縛られない「オブジェクトと人の関係」

もともとはメディアアート以外の現代美術にも関心が高かったのですか?

ヤノベケンジさんなど、当時「ジャパニーズ・ネオポップ」として紹介された作家のうち何人かには、とても惹かれました。ヤノベさんも、『アトムスーツ』など機能を持ったオブジェをつくっているともいえますよね。

「この作品はこう解釈すべし」とズバっと言ってくれて、皆になるほどと思わせてくれる存在がいた時代もあったのかもしれません。例えばC・グリーンバーグのような評論家が活躍したころはそうなのかなと思うのですが、現代では何に頼ればよいのかが、もっとあやふやですよね。そう考えたときに、僕の中で文脈なり解釈とは違うところに関心が移っていったのは事実です。それは自分にとって、大きな分岐点だったとも思います。

第7回文化庁メディア芸術祭のアート部門大賞作品『デジタルガジェット6,8,9』は、3作品の組み合わせで受賞しています。これはやや珍しい形でしたが、組作品として応募したのはどんな理由からでしょう?

ひとつには、僕の作品は小さいものが多いからです(笑)。ひとつなら点でも、2つあると線、3つあると面ができるなというのがありました。もちろん互いに関係性があり、いずれも身体性を伴うわかりやすいインタラクションをテーマに生まれたものです。

『duper/looper』はテーブルをノックすると同じリズムを真似して打ち続ける作品。『Heaven Seed』は投げたり回転させたりすると、動きに応じてさまざまな音が鳴るボール。そして『loopScape』は、円筒型の画面で対戦型ゲームを行う中で、攻防の因果関係が錯綜する作品ですね。

『loopScape』(2003)
『loopScape』(2003)

オブジェクトと人の関係や、オブジェクトが介在した状態での人と人の関係への関心は常にありました。テレコミュニケーションやネットワークという観点からメディアアートの世界に合流していった人たちとは、僕はそのあたりで少し異なるかもしれません。

フェスティバル自体への印象はいかがでしたか?

実はそれまでその存在を詳しく知らず、勧められて応募してみたのが本当のところです。筑波大の後にIAMAS(情報科学芸術大学院大学)でも学び、アルスエレクトロニカにも出展したりする中で、メディアアートの動向は自分なりに理解していましたが、文化庁が、つまり日本という国がこういうジャンルの表現をバックアップしようとしているのは新鮮な驚きでもありました。

どう見せるかに挑んだ『10番目の感傷(点・線・面)』

以降も活躍を続けるなか、『10番目の感傷(点・線・面)』で再び文化庁メディア芸術祭のアート部門に入賞します(第14回 優秀賞)。光源を積んだ鉄道模型を走らせ、周囲に配した日常品の影が幻想的に移ろっていくインスタレーションで、これは新境地との評も多かったのでは?

『10番目の感傷(点・線・面)』(2010)
『10番目の感傷(点・線・面)』(2010)©2010 クワクボリョウタ
写真:木奥恵三 写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]

作品そのもの以上に、それを「どう見せるか」の重要性を考えるようになったなかで生まれた作品です。現状の結論として、まず僕のガジェット系作品は公共空間での体験展示よりも、商品として購入できる形がよいと思っています。そうしないとコミュニケーションの形として機能しないものも多いので。

確かに、『ニコダマ』(第14回文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門 審査委員推薦作品)などは実際に商品化されたことで、持ち主が好きなところに取り付けて楽しめるのがよいですよね。

いっぽうで『10番目の感傷(点・線・面)』は、展示空間での効果的な見せ方として「受け手の体験をどう設定し、提供するか」に比重を置いて取り組んだものです。このときは「そこで経験するものすべてが作品にかかわる体験」といえるものを作ってみたいと考えました。例えば、ふつうはノイズだとされる展示空間のホコリや熱、機械の発する音、さらに作家が気付かないものをも含めた作品体験です。また、これは今回結果的にですが、暗い空間ほど見る側のゲイン(入力レベル)は上がっていく面があります。これはマッチョなメディアアートが、観る者を圧倒することで感動を与えるのとは異なるやり方です。もちろん、どちらの手法もありだと思います。

この作品の誕生においては、フッサールの現象学もヒントになったと聞きました。

はい。「その人に見えるものすべて」から始める姿勢は、現象学的還元の考え方にヒントを得たところがあります。

ここでは「機能」からいったん離れたといってよいのでしょうか?

そこはあまり意識していません。体験をどう生むかを考えてものをつくる際に、今回は観る側が使える機能ではなく、視覚的な仕組みを用いたということです。何が起こっているかはわかりやすく、その点ではこれもしきいが低い作品といえるかもしれません。いっぽうで、あの視覚的インパクトの理由のひとつは、影の解像度の高さだと思うんです。そもそもドットもフレームもない、時間軸と空間軸において完全に連続した像ですから。プロジェクターからの映像に慣れ親しんだ現代にあって、観る側は無意識にでもその違いを知覚するはずです。

老若何女に体験してもらえる作品を目指す本当の理由

『10番目の感傷(点・線・面)』は文化庁メディア芸術祭のアート部門に「インスタレーション」カテゴリではなく、「インタラクティブアート」として応募されました。そこにはちょっとしたメッセージも?

はい。概念化・目的化してしまったインタラクティブ性とは違うものを志向したところはありました。あれをインタラクティブだと主張したら、絵も彫刻もそうでしょう、というのは承知の上です(笑)。でも、観衆の動きに反応して変化するとかなら、いまやケータイやiPhoneもインタラクティブなわけで、そろそろこの言葉の再定義を考えていい時期のように思えます。

インタラクティブアートの登場時のような様式は、もう飽和点に達している?

当然、新しい動きは加わり続けるでしょう。でも現時点ではいまだに、あるパターン中でどこに分岐するかという範疇だとも感じます。『10番目の感傷』は幅広く受け入れられたと同時に、すべての観賞者の体験が一点に収束しない作品だとも思っています。恋人同士で観ても、互いにまったく違うものを感じるかもしれない。それって実は恐ろしいことでもありますよね(笑)。一緒にいても、相手の体験には決して到達できないわけですから。僕の過去作品では、『PLX』がこれをより顕在化させたものともいえます。目に見えているものと、そこに何を見ているかはまた違う。これは常に興味のあるところですね。

そのためにも、さまざまな場で作品を見せていきたいのでしょうか?

簡単にいうと老若男女ですね(笑)。限られた対象に見せる作品も必要だし、そのほうが議論の密度も上がるでしょう。逆に言えば、狭い範囲の人にしかわからないものって鋭さがあるけれど、もののつくりかたとしてはシンプルですよね。いっぽうで僕は、多方面からみたときにも、どうにかとっかかりがあるインタフェースに関心があります。先日、養老渓谷の古民家で展示をした際は、ハイキングに来て、いわば偶発的に作品を目にする人も多かった。そういう人の反応にも興味があるんです。

実際にそうした反応を目にすることは、作家としてはどんな体験ですか?

『10番目の感傷』の空間にいると、観にきた人に「俺ならこういうモノを置く」といった話をよくされます。それはきっと、あの作品を自分なりのインタフェースとしてつかんでくれたということですよね。それを直接ぶつけてもらえる、つまり作品体験そのものが他者と関係を結ぶきっかけになる点では「やっと自分のアートをつくったかな」と思ったりもします。

『いち、に、たくさん』(2011)
『いち、に、たくさん』(2011)

現時点ではどんなテーマに関心を持っていますか?

先日“パブリック・メディアアート”を考える展覧会「歌舞伎町アートサイト」に出展した『いち、に、たくさん』は、やはり影を使った作品です。ここでは、3つの都市で入手したお土産の彫像に当てる光を、ミリ単位で制御し重ねていきます。そこには誰も見たことのない絵がでてくる瞬間があるかもしれない。そんな期待が自分の中にもあります。まだ見たことのない絵、聴いたことのない音は未だにあると思いますし、それを体験する人の意識にもやはり興味がありますね。

写真(ポートレート):菱沼 勇夫

プロフィール

クワクボ リョウタ

KUWAKUBO Ryota

日本

1971年栃木県生まれ。98年に明和電機との共作『ビットマン』を発表して以来、エレクトロニクスを使用したメディアアート作品を国内外で発表。アナログとデジタル、人間と機械、情報の送り手と受け手など、さまざまな境界線上で生じる関係性を、制作のテーマにしている。これまでの代表作に『ビデオバルブ』『PLX』『シリフリン』など。文化庁メディア芸術祭では、『デジタルガジェット6,8,9』で第7回アート部門大賞を、また『10番目の感傷(点・線・面)』で第14回アート部門優秀賞を獲得している。『ニコダマ』は第14回エンターテインメント部門での審査委員会推薦作品に選出された。

( 2011 )